資本論―斎藤幸平さん①(続き)

斎藤幸平さんの資本論(100分で名著)①の続き。「価値」と「使用価値」の違いについて。マルクスは、「商品」には二つの顔がある、一つは使用価値ともう一つは価値。「使用価値」とは、人間にとって役に立つこと(有用性)、人間の様々な欲求を満たす力のこと。「使用価値」こそ、資本主義以前の社会での生産の目的でした。

資本主義においては、商品のもう一つの顔「価値」が重要である。「商品」になるためには、別の何かと交換されなければならない。例えば、椅子と卵100個でを交換する際に、「どっちが役に立つか」と使用価値を比較しても交換はできない。何か別の「椅子と卵100個でちょうどいい」と双方が納得する共通した基準で比べることのできる、その基準が「価値」である。この価値は、その商品を生産するのにどれくらいの労働時間が必要であったかによって決まる、というのがマルクス「労働価値説」です。

資本主義のもとでは、売れそうかどうかや、価格という形で現れる「価値」の側面ばかりが優先され、肝心の「使用価値」は二の次。

価値の大きさは、交換者たちの意志、予見、行為から独立して、絶えず変動する。交換者たち自身の社会的運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとり、彼らは、この運動を制御するのではなく、むしろ、この運動に制御される。

「価値」のためにモノを作る資本主義のもとでは立場が逆転し、人間がモノに振り回され、支配されるようになる。この現象を、マルクス「物象化」と呼びます。

現代は、「富」を削って「商品」を増やそうとする動きがある。例えば、公立図書館の民営化や非常勤職員の増加。都市部の公園の再開発という名の囲い込み(買い物や食事やスポーツを楽しめる複合施設にすることで、お金のない人には行けない場所になってしまうこと)。これが、資本論の冒頭の「社会の富が商品として現れる」ということの現実です。富は「使用価値」の論理に支えられ、商品は「価値」の論理で動いている。

そういえば、最近到るところで乱立している住宅(戸建てやアパート・マンション)について、あっという間に家ができるね、とむしぱんと話していた。その家もせいぜい30年かそこらしかもたず「商品化」しているのだという。

商品に頼らずに生きていくことは、現代社会では、もはや不可能です。それを手に入れるにはお金が必要です。だから私たちは働かなければならない。問題は必死に働いても生活に十分なお金を手に入れることができず、借金、貧困、過労死、失業の脅威に晒され続けている人がたくさんいる。しかも、大勢の人々が富へのアクセスを失うことによって、一部の人はますますお金を貯めこんでいる。この対立と格差を広げているのが、「資本主義的生産様式」-つまり、価値を増やし、資本を増やすことを目的とする商品生産―によって歪められた「労働」です。

このあたりの記述は、現代社会で働く、生計を立てるために働くとは、どういう事かを一歩踏み込んで考える素材を与えてくれている。人が豊かに暮らせる生活・仕事とはどういうものか、マルクスを紐解きながら、これからの社会生活を切り開いていきたい。