武道論(内田樹)からの学び ~離見の見~

内田先生の武道論より、学びの記憶として残しておく。

「離見の見」~能の稽古と感受性の高い身体への訓練~

能では「離見の見」ということを言う。シテが自我から離れて、他者の視線で自分の舞や謡を観察する心得のことである。主観のことを「我見」という。我見に居着いてはならない。どうすれば「我見を去る」ことができるのか。能において「離見」は純粋に技術上の課題である。舞台に立つシテのする仕事は、その無数のシグナルが行き交う空間に立って、自分がいるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなすということに尽くされる。シテは自分の意思で動くのではない。それは「我見」である。能舞台が発するシグナルを適切に受信できれば、シテはいつ、どこに立って、どのように所作をなすべきなのかを舞台に教えてもらえるはずなのである。ある場所に行ったら、決められた動作ではなく、そこで身体がしたがる動作をすることにした。そこでどんな動作を身体が求めてくるのかは、文脈によって決まっている。これ以外の動作はあり得ないという必然性のある動作がある。謡にしても次の謡の詞章を頭の中に思い浮かべて、それを読み上げるような謡い方をするのを止めた。こう謡ったら、次はどうしてもこう続かないと謡にならない。そういう音の流れがある。そうやって自動的に所作がなされ、謡が出てくるようになるまで、とにかくひたすら稽古する。舞台から送られてくるシグナルに従って動く。できるだけ受動的になる。何かが私の身体に触れて、こちらへ曲がれ、ここで止まれ、と指示してくれるのに従う。能が要求しているのは、周りから送られてくる幽かなシグナルを感知して、それに従うことができるような感受性の高い身体を創り上げることなのだということがわかった。能舞台では「自分が何をしたいか」ではなく、「何をするためにここにいるのか」を問う。他ならぬここで、他ならぬこのときに、他ならぬ私が余人を以ては代え難い唯一無二の行為をする。だとしたら、それはどのような行為でなければならないのか。

→この論考は、今・ここでの私の生き方を問うている気がする鋭い論考である。「周りから送られてくる幽かなシグナルを感知して、それに従うことができるような感受性の高い身体を創り上げる事」「能舞台では自分が何をしたいかではなく、何をするためにここにいるのかを問う」「そこでどんな動作を身体が求めているのかは、文脈によって決まっている。これ以外の動作はあり得ないという必然性のある動作がある」このあたりは、今の自分の置かれている環境を考えてみても、周りの様々なシグナルを感知して、その必然性に従って自分は何をするためにここに置かれているのかを考え、一瞬一瞬を生きていかなくてはならない。自分の周りの環境が発するシグナルを適切に受信できていれば、私はいつ、どこに立って、どのように所作をなすべきなのか、環境に教えてもらえるはずなのである。