武道論(内田樹)からの学び ~日記を書くこと~先手・後手~

内田先生の武道論より、学びの記憶として残しておく。

「言語の生成と武道より」

私にとって「書く」とは、「まだ言葉にならないこと」を言葉にする位相転換の作業のことであって、そこが一番楽しいのである。今私が書こうとしているのは原理的には「私の理解を超えること」である。「私の理解を超えること」を私の手持ちの語彙の中に落とし込もうとしている。自分には理解できないアイデアを自分に理解できる言葉に置き換えることなどできるのか?これは「できる」。私はその訓練はレヴィナスの翻訳を通じて行ってきた。レヴィナスの書いていることが理解できないのは、哲学的知識やフランス語読解力が欠けていたからでなく、それ以上に私が未熟な人間だからであり、もっと人間的に成長しなければレヴィナスは理解できないことは直感的にわかった。翻訳という作業は、語学運用能力という知的な問題というよりかは、もっと全体的な私の人間的成熟にかかわる問題だった。

→今、日記をできるだけ書いているが、これは日々の起こっている現象や自分の考えたこと思った事で、言葉にならないことを言葉にする訓練になっている。ただ漫然と一日一日が過ぎていくのでなく、日記を書くことが人間的成熟にかかわる作業にもなっているだろうか。

「後手に回る」こと。「相手がこうしてきたら、こうよけよう。こう反撃しよう」という発想をする限り必ず後手に回る。どうすれば後手に回らずに済むか。日本各地い妖怪「サトリ」の民話がある。サトリは人間の心を読んで、次の動作を予測することはできるが、ランダムに起きる現象(井炉端の焚き木)を予知することができない。これは武道における「先手」という概念を考えるときの手がかりになる。「相手に先んじて動く」という枠組みにとどまる限り、身体が動き出すに先立って、その意図はすでに漏出し、相手に予知され、「起こり」を咎められる。「相手に先んじて動く」というスキームそのものが「後手に回る」ことを意味する。「先手」とは、サトリにおける「焚き木」のような動きのことである。「相手」とか「先」とかいうスキームの外に立つことである。相手の攻撃に応じたわけではなく、ふいに「水底から気泡が湧き上がるように」ある動作がしたくなったというのがよい。わずかな感覚入力に反応できるためには、身体のどこにも力みやこわばりや緩みがあってはならない。そのような身体の状態を達成するためには、別の仕事(失敗しようのない仕事)を託せばいい。想像上の雪を求めて、手のひらの感度が最大化しているという状態は間違いなく達成できる。そのとき、どこにも力みもこはばりも緩みもない身体になっている。

→想像上の訓練がこはばりや緩みや力みのない身体に通じる。能のお稽古はまさに想像上の訓練である。社会福祉の現場の仕事にまみれてしまうと、後手に回りそうになったり「相手」「先」というスキームでモノを考えがちになってしまうが、そのスキームの外に立つ身体であるよう調えていかなければならない。