タルマーリー 腐る経済に学ぶ ~小商い・自前の生産手段を取り戻す~

タルマーリー「腐る経済」読み終わる。著者の生き方そのものが、これからの「田舎暮らし」「地域を循環させる経済」についてのアイデアに溢れている。マルクスと「小商い」について書かれたところより引用。

マルクスいわく、資本主義経済の矛盾は、「生産手段」をもたない「労働者」が、自分の「労働力」を売るしかない構造から生まれている。そこでマルクスは、労働者みんなで「生産手段」を共有する共産主義を目指したが、今さらそういう方法がうまくいくとも思えない。今の時代は、ひとりひとりが自前の「生産手段」を取り戻すことが、有効な策になるのでないか。そのニュアンスをうまく表現しているのが「小商い」という言葉(中略)。「内」なる力、潜在能力を大切にする暮らしや仕事のあり方が、「天然菌」や「自然栽培」、あるいは「引き算のパンづくり」という発想と似ている(中略)。今こそ「小商い」の時代なのではないか。交通も通信もインフアが整備され、規模が小さくても十分にやっていける環境が整ってきている。インターネットやソーシャルメディアは、情報収集や情報発信も思いのまま。「小商い」にとって大きな武器。僕らのパンは、ひとことで表現するのが難しい。だから、ブログやツイッターフェイスブックを使い、僕らがつくるパンや店のあり方について丁寧に語ることに重きを置いている。心を込めて丹念にパンをつくり、言葉を紡いできた結果「田舎のパン屋」が5年にわたって受け入れられてきた。

 

タルマーリー「腐る経済」 

智頭町に来た。空気とお米と緑ととても自然が周囲に身近に感じられる場所で生き返る心地がする。宿泊先でタルマーリーの「腐る経済」が置いてあって読んでみると面白いこと。マルクスの「商品」「労働力」「使用価値」「交換価値」の解読も含まれて、現代を生きる人るの生き方が著者の今に至る道程と共に語られている。以下、抜粋。

僕ら「田舎のパン屋」が目指すべきことはシンプル。食と職の豊かさや喜びを守り、高めていくこと、そのために、非効率であっても手間と人手をかけて丁寧にパンをつくり、「利潤」と訣別すること。それが、「腐らない」おカネが生み出す資本主義経済の矛盾を乗り越える道だと、僕は考えた。

その中で、僕らは「菌」と巡り合った。純粋培養されたイーストではない、人類が昔からつきあってきた「天然菌」だ。自然界では、「菌」の営みによってあらゆるものが土へと還り、「循環」のなかで生きとし生けるもののバランスが保たれている。ときおり環境に変化が起こり、バランスが失われたときも、「循環」のなかで自己修復の作用が働いて、バランスが取り戻される。その自然のバランスのなかで、誰かが独り占めするわけでも、誰かが虐げられるわけでもなく、あらゆる生物がそれぞれの生を全うしている。「腐る」ことが、生命の営みを成り立たせている。

この自然の摂理を経済活動に当てはめるとどうなるか。生を全うする根底に「腐る」ことがあるのだとすると、「腐る経済」は、僕らひとりひとりの暮らしを、穏やかで喜びに満ちたものへと変え、人生を輝かせてくれるのではなかろうか。

このあたりの記述は、人間社会にも当てはまるなあと思った。「循環」「自己修復の作用」「バランスを取り戻す」というあたりの表現は、福祉の働きにおいても、キー概念になっていると思う。著者の考えから人間社会に学べることは多い。また「循環」や「自己修復の作用」は「菌の営み」によって保たれると。自然界における「菌」は人間社会においては何と表現されるのだろう。

 

 

障害福祉 どんな風に表現するか

昨日、みつぎの空き家をガイドしてもらった、カージーに自分の仕事を紹介して改めて、自分の仕事を相手にどのように表現するかを考え直した。

よく言うのは「障害のある人の生活支援」の仕事。昨日は「障害のある人が生活(住まい・日中活動(居場所/仕事)・健康な暮らし・お金)を保つために行政の援助だけでは届かない、その人との関係つくりを介した支援(行政委託を受けた仕事)」と伝えた。

あながち間違いではないと思うけど、振り返って考えると「医療モデル」的な考えから抜けれてないと思った。それは「障害のある人の支援」という表現である。ここには支援される側と支援する側という意味が見え隠れするし、障害者を健常者が助けるという構図が背景にあるからこういう表現になる。

もっと解像度を上げて考えると「障害のある人の支援と、社会生活をしていく上で障害を感じている(社会的な障壁のため社会生活が困難になっている)人への支援」と2種類ある事が、とても大事だと思う。障害のある/ないで人間社会は区切ることはできないし、乱暴である。だからこそ、「障害の受容」などという障害を押し付けがましいような言葉も出てきている。実際に「障害のある人」というのは身体障害を抱えている人や重度の知的障害・精神障害を抱えている人は一定数おり、それはそれで当事者と周りにいる家族や地域社会の相互作用で、どんな社会生活を営む社会が作っていけるかは重要な課題である。

一方で、はっきりと障害のある人とは言えない、「社会生活を送る上で障害を感じている(社会的な障壁のために社会生活が困難になっている)人」というのは、健常/障害の区別に関わらず、今の社会には五万といるかと思う。それは不登校や引きこもりだったり、8050問題だったり、老々介護だったり、児童虐待・障害者虐待、会社でのブラック企業、など様々に今の社会制度疲労が起こしている軋みのような事が色んな所で起こっている。それを一括りにして”障害のある人”と表現してしまいがちなのが、今の障害福祉に携わっている人の盲点だと思う(自分も含めて)。そこは厳しく批判されなければならないし、今日のように他業界の人と交流することで、考えさせられる出来事でもある。

障害福祉障害福祉に閉じこもってはいけない。そうすると障害福祉の言葉がより貧相なものに、社会から囲い込み(エンクロージャー)するものにどんどんしてしまう。障害福祉障害福祉に限らないかもしれない)は社会に開いていかないといけない。障害福祉の業界で使う言葉を社会に通じる言語にしていかないといけないと思う。




数学の贈り物(森田真生さん)にインスピレーションを受けて~「尾道の本屋」「半農半SW」~

 森田真生さんの「数学の贈り物」読了。数学を糸口に人が生きること、社会について、哲学について、ご自身のこどもが育っていくことについて、教育について、現代に生きる私たちの問い、など1篇1篇が、真実味あふれ、かつ目の前の未来を切り開いていくための数学的な爽快感の感じられる本だった。どの編も素晴らしく、ここに付箋を貼るという意識もなく、流れ星のように読み流れていった。森田さんは私との年代も近いので、現代に生きる私たちの問題意識を言語化している箇所もあり、生きる方向づけをしていくために、現在私たちがいる位置を様々な角度から照らしてもくれている。

 この本は尾道のとある本屋さんに初めて入って、目に留まって買ったのだった。本屋さんも独特な文化的な香りと雰囲気のある本屋さんで、尾道の文化の一部として息づいていた。これから移住で住まいの場所を考えるにあたっては、好きな本屋が身近にあるって大事なことだなと改めて思った。

 本屋は未知への扉(窓)であると内田先生が言ってた気もするけど、まさに未知への窓がきちんと開かれている場所(通路・回路)があることは、自分と社会(世界)が循環して生きていくためにとても重要な資源であると思う。地方移住するにあたっても、そのような地域・社会・世界との循環が無ければ息苦しくなって居心地が悪くなるだろう。だから、文化拠点というのは街にとって死活的に大事なんだと思う。その意味では、尾道はある種の魅力を持っているように思える。

 話は飛ぶが、「半農半ソーシャルワーカー」というのが生き方の一つにできるかと考えた。ソーシャルワークは今の仕事で身に付けようと努力している一つの働く技術である。それは、現代社会の社会的障壁のために生きづらさを抱えている人とつながり、その人の苦しみ・生きづらさを感じとり、今の日本社会の中で、取りこぼされそうになっている人と(孤独死自死・生活困窮・虐待・いじめ・差別・8050問題・ひきこもり・不登校・家族心中・社会的入院・強制入院)つながっていく、生きる希望を失いかけている人とつながって共に生きていくための社会的な技術であろうか。

 そのような仕事(技術)が今の日本社会の中で価値ある事とされているかというと、今までの資本主義社会の中では優先順位としては後回しにされていることかと思う。ただ、これからの人口減少社会・高齢化社会の中を、どのように生き延びて次の世代に繋いでいくのかを問われている現在に生きる私たちにとって、生きる希望が持てる社会はとても大事なことと思う。今の社会はとても、そういう希望が感じられる社会とは言えないと思う。上記のような状況に誰でも落ちうる社会にあって、安心して生きられる社会であるためには、そういう状況にある人とこそ、繋がっていく社会が求められるのでないだろうか。それができる地域で取り組んでいきたい。それは大都市では難しいだろう。

日本再生のプランB(兪先生)

兪先生と内田先生との対談より。兪先生の「プランB」は医療・教育・芸術という3本が融合するセクターに資源を集中することで日本を再生するというもの。

内田 若くて優秀な人たちがいまは地方に行って、農業をしたり、小商いをしたり、非営利的な活動を始めています。僕の周りにもそういう若者がたくさんいます。彼らに共通しているのは、どれも私財を公共的に供託して、「コモン」を再構築しようとしていることです。

僕の友人の青木真兵・海青子夫妻は東吉野の山中の自宅をルチャ・リブロという「私設図書館」として開放しています。旧友平川克美君も「書物は私有すべきではない」と、自分が経営するカフェに自分の全蔵書を移して、誰にでも読めるようにしました。とにかく公共財を豊かにするという方向においては一致しています。

周防大島で農業をやっている中村明珍君はパンクバンドのギタリストでしたけれど、地方移住してから得度(とくど)して、お坊さんになりました。だから、いまは農家で僧侶で時々ミュージシャンです。食料生産と宗教と芸能という人間が生きてゆくためになくてはならないものを一身で行っている。人間が生きてゆくためにほんとうに必要なものは何かを真剣に考えていると、彼みたいな生き方になるのかなと思います。

移住への道筋 「次の時代を先に生きる/高坂勝氏」より

「次の時代を先に生きる~ローカル、半農、ナリワイへ~」高坂勝著読了。本著では、地方移住に向けてのビジョン・方向性・希望が比較的ハッキリと描かれている。これからの移住に向けての動きを考える上での重要な材料になるので、書き留めておきたい。

 高坂氏は千葉県匝瑳市へ移住し、「半農半X」「自給自足」の実践をしているのみならず、田んぼでのお米作り、大豆の自給までしているところが魅力的だ。畑での野菜作りは始められても、田んぼでのお米は大規模な耕運機など必要で手が出ないイメージがあったが、自給できる分のお米なら十分にやっていけることを本を通して具体的に示している。

またこの本では「THE消費者」「自給」というキーワードで現代社会での都市生活(サラリーマン生活)とこれからの新しい地方(田舎)での生き方(ナリワイ)を巧みに表現している。「The消費者で居続ける限り、死ぬまで被害者であり、死ぬまで加害者でもある」「世界の途方もない様々な問題群に対して、ささやかでもできる、かつ、本質的な行動は、自分の食べ物の自給だ」「自給をすることで僅かでも輸入依存度を減らし、加害者から抜け出ることだ」「自給は『The消費者』と化したこの国に住む人たちが尊厳を持って生きる入口になる。企業に隷属しなくても生き延びることができるからだ。」「The消費者に甘んじてなんていられない。企業のお膳立てに乗るなんてシャクだ。食べ物を育て、採取し、遊びをクリエイトし、感動と楽しさを自ら見つけ、生きる力を獲得する。君はThe消費者として一生過ごすか、それとも人生をクリエイトしてゆきたいか?」

また、もう一つのキーワードに「ナリワイ」がある。ナリワイについて高坂氏からの記述をいくつか参照しよう。「就職しない生き方。それには2つの方法がある。1つは、ナリワイを興すこと。もう1つは自給する事」「ナリワイとは、個人で元手が少なく多少の訓練で始められて、やればやるほど頭と体が鍛えられて技が身に付き、ついでに仲間が増える仕事のこと」「要は会社から給料をもらう仕事ではない」「せっかく田舎に行くのだから、仕事を与えてもらう発想から抜けて、仕事を創り出す決断をすればいい。まさにナリワイなのである。実は田舎ほど課題先進地だ。」「ナリワイへの可能性は自分の内側を見つめることから、もしくはすでに持っている要素から発展する。ナリワイは1つでなくていい。専業にこだわる必要はない。むしろいくつもあったほうがリスクヘッジになるし、互いの仕事を行き来することで飽きが来ず、メリハリにもなる。ナリワイ助走期間中はアルバイトやパートでライフスタイル基準金額を補填するのもいい。」「経済成長至上主義に代わる、新しくて懐かしい経済の構築に、一人ひとりのナリワイ人こそが貢献してゆけるのだ。グローバル化の先のローカル化が順調に始まってゆく」

→自分のナリワイの可能性は?(音楽:ピアノ、ギター、弦楽器、/ソーシャルワーク、病気・障害のある人の生活援助/)

移住に向けて今年度の一年間かけて、見学・体験・現地の人の話を聞きに行く、などして移住してみたい地域との関係づくりと、移住後の生活(半農半X、ナリワイ、自給自足)の形作りをしていきたい。

夢のーと

これからやりたい事

・あんこを主軸とした和喫茶→開かれた公共空間(コモン)の創造

 →「あんこ研究」「お茶の研究」「本」「空間づくり」

・食べ物の自給自足生活(野菜、米など)

 →畑での野菜づくりから

・妻と落ち着いた暮らし/のびのびと生活できる暮らしの場(家)を見つける事

 →空き家ばんく、お試し住宅

・こどもができること

社会福祉の援助技術を伸ばすこと

・2つの原理をもつこと(資本主義社会で生きる上で必要になるお金をどのようにしてやりくりするか/お金や資本主義の届かない生活をどのように組み立てていくか)

・移住後の暮らしのイメージ具体化

 「住まい」「仕事」「半農半X」「お金」