ねばついた共感

内田先生と三砂先生のミシマ社の対談を拝聴。「ねばついた共感」「場をつくる人間」「場(=私人ではなく公共)を立ち上げる」「私から公へ。7%(15人に2人)くらいいればいい」。「共感」と「習合」の違いについて、以下『日本習合論』より。共感や理解を急ぐことはない。この本で言いたいのは第一にそのことです。僕が「習合」という言葉に託しているのは、「異物との共生」です。そのことのたいせつさが見失われているのでないか、異物を排した純粋状態や、静止的な調和をあまりに人々は求めすぎているのではないか。そんな気がします。それが社会が生き生きとしたものであることを妨げている。いくつかの構成要素が協働しているけれど、一体化してはいない。理解も共感もないけれど、限定的なタスクについては、それぞれ自分が何をしなければいけないのかがわかっている。そういうシステムのことを「習合的」と僕は呼びたい。(日本習合論 p.64)

 これから移住してからの仕事を考える時に、障害福祉の経験や支援技術を活かした仕事をとりあえずは探していくキッカケにはするが、それだけになってしまうと、「ねばついた共感」に絡まれて身動きができなくなるような働き方になってしまうことに留意。

 今日の話で、三砂先生から大学生の20歳頃に「自分の本当にやりたいことを探しなさい」(20歳頃に気になってた事は、大人になった今でも気になっている。なぜ、それが気になるのかは、その人にとっての霊的な?問いであると考えると)という話があった。大学卒業後に社会福祉の仕事と勉強を始め、現在に至っているが、内田先生のいう「習合的」「異物との共生」は社会福祉の領域では法人ごとに、どの法人でも”ねばついた共感”や異物との共生ができない集団(法人)が多いと感じる。「理解も共感もないけれど、限定的なタスクについて、自分が何をしなければいけないかがわかっているか?」という視点から、とりあえずの仕事を探してみてもよいかもしれない。