障害福祉 どんな風に表現するか

昨日、みつぎの空き家をガイドしてもらった、カージーに自分の仕事を紹介して改めて、自分の仕事を相手にどのように表現するかを考え直した。

よく言うのは「障害のある人の生活支援」の仕事。昨日は「障害のある人が生活(住まい・日中活動(居場所/仕事)・健康な暮らし・お金)を保つために行政の援助だけでは届かない、その人との関係つくりを介した支援(行政委託を受けた仕事)」と伝えた。

あながち間違いではないと思うけど、振り返って考えると「医療モデル」的な考えから抜けれてないと思った。それは「障害のある人の支援」という表現である。ここには支援される側と支援する側という意味が見え隠れするし、障害者を健常者が助けるという構図が背景にあるからこういう表現になる。

もっと解像度を上げて考えると「障害のある人の支援と、社会生活をしていく上で障害を感じている(社会的な障壁のため社会生活が困難になっている)人への支援」と2種類ある事が、とても大事だと思う。障害のある/ないで人間社会は区切ることはできないし、乱暴である。だからこそ、「障害の受容」などという障害を押し付けがましいような言葉も出てきている。実際に「障害のある人」というのは身体障害を抱えている人や重度の知的障害・精神障害を抱えている人は一定数おり、それはそれで当事者と周りにいる家族や地域社会の相互作用で、どんな社会生活を営む社会が作っていけるかは重要な課題である。

一方で、はっきりと障害のある人とは言えない、「社会生活を送る上で障害を感じている(社会的な障壁のために社会生活が困難になっている)人」というのは、健常/障害の区別に関わらず、今の社会には五万といるかと思う。それは不登校や引きこもりだったり、8050問題だったり、老々介護だったり、児童虐待・障害者虐待、会社でのブラック企業、など様々に今の社会制度疲労が起こしている軋みのような事が色んな所で起こっている。それを一括りにして”障害のある人”と表現してしまいがちなのが、今の障害福祉に携わっている人の盲点だと思う(自分も含めて)。そこは厳しく批判されなければならないし、今日のように他業界の人と交流することで、考えさせられる出来事でもある。

障害福祉障害福祉に閉じこもってはいけない。そうすると障害福祉の言葉がより貧相なものに、社会から囲い込み(エンクロージャー)するものにどんどんしてしまう。障害福祉障害福祉に限らないかもしれない)は社会に開いていかないといけない。障害福祉の業界で使う言葉を社会に通じる言語にしていかないといけないと思う。