武道論(内田樹)からの学び ~ノイズが消える方向へ~

内田先生の武道論からの学びをここに残しておく。

「ノイズが消える方向へ」

武道では、「座を見る、機を見る」ことがたいせるである。「座を見る」というのは「適切な位置取りをする」ということ。「機を見る」というのは、「適切な頃合いを見計らう」ということ。ここでいう「適切」というのは、自他のわずかな移動で、それぞれのわずかな身動きによって、何が適切であるかは一変する。座も機も孤立した単独の主体にかかわることがらではない。それは主体と他者の関係のうちで生起する。

 カタストロフ的な状況に陥ったときに、(同期現象の)誘発者は際立つ。天変地異であれば、巨大な事故であれ、何が起きたかわからない、どうすればいいかもわからないという状況に陥ることが私たちの身には起きる。そういう場合でも「どうすればいいかわかる」人がいる。なぜか、そういう人は「こっちだ」と決然と進む道を示して自信をもって歩みだす。そういう人は、このあとわが身に危険が訪れるという予感がするとおそらくある種のノイズのようなものが感知されるのだと思う。彼らはどこに向かうのか?「ノイズが消える方向」に向かっているのだと思う。ある方向に向かうとノイズが相対的に小さくなる。耐え難さがいくぶん緩和される。たどるべき動線をたどるとノイズが消える。今このような文章を書いているときの実感でもある。書いているときでも、間違った方向に進むと、スクラッチノイズのようなものがする。何かが「ひっかかる」。正しい方向に進んでいるときは、そういうことは起きない。

武道論(内田樹)からの学び ~同期する技術~

内田先生の「武道論」からの学びをここに残しておく。

「同期する技術」

すでに同期を果たしている個体は同期の誘発力が強い。同期現象は「感染」する。蛍の集団発光でも、誘発者の周りから同期が始まってやがてそれが全体に広がる。局所的な同期が全体に「感染」する。人間の場合、まず自己同期を達成するところから始める。謡のように、自分の中にある複数の身体単位を制御してそれらを同期させることを仮に「自己同期」と呼ぶ。他者を同期させるためには、まずおのれ自身のうちにおいて自己同期を果たすところから始める。「調身、調息、調心」という言葉がある。身を調え、息を調え、心を調えることである。これが心身のさまざまな働きを一つの秩序のうちに調えることを指す言葉であるとするならば、それを「自己同期」と呼んでよいだろう。自己同期を果たした個体は、強い同期現象誘発力を発揮して、周囲の個体を同期に誘う。私の合気道の師である多田宏先生はよく「オールド・バイオリンのような声で話すように」ということを言われる。必要なのは「大きな音」ではない。「届く音」である。謡の稽古をするようになってから、「大きな声」と「届く声」がまったく別のものだということを身を以って味わった。そして、「届く声」を獲得することが、そのまま能における謡の説得力につながることを学んだ。

→すでに同期を果たしている個体として、内田先生や森田さんが浮かぶ。この方々は誘発力が強い。身を調え、息を調え、心を調える、自己同期の訓練を始めること。その訓練ができる場に自身の身を置くこと。その動線は今もある。ノイズが消える動線を感知できるよう、感度を研ぎ澄ませて。

 

武道論(内田樹)からの学び ~離見の見~

内田先生の武道論より、学びの記憶として残しておく。

「離見の見」~能の稽古と感受性の高い身体への訓練~

能では「離見の見」ということを言う。シテが自我から離れて、他者の視線で自分の舞や謡を観察する心得のことである。主観のことを「我見」という。我見に居着いてはならない。どうすれば「我見を去る」ことができるのか。能において「離見」は純粋に技術上の課題である。舞台に立つシテのする仕事は、その無数のシグナルが行き交う空間に立って、自分がいるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなすということに尽くされる。シテは自分の意思で動くのではない。それは「我見」である。能舞台が発するシグナルを適切に受信できれば、シテはいつ、どこに立って、どのように所作をなすべきなのかを舞台に教えてもらえるはずなのである。ある場所に行ったら、決められた動作ではなく、そこで身体がしたがる動作をすることにした。そこでどんな動作を身体が求めてくるのかは、文脈によって決まっている。これ以外の動作はあり得ないという必然性のある動作がある。謡にしても次の謡の詞章を頭の中に思い浮かべて、それを読み上げるような謡い方をするのを止めた。こう謡ったら、次はどうしてもこう続かないと謡にならない。そういう音の流れがある。そうやって自動的に所作がなされ、謡が出てくるようになるまで、とにかくひたすら稽古する。舞台から送られてくるシグナルに従って動く。できるだけ受動的になる。何かが私の身体に触れて、こちらへ曲がれ、ここで止まれ、と指示してくれるのに従う。能が要求しているのは、周りから送られてくる幽かなシグナルを感知して、それに従うことができるような感受性の高い身体を創り上げることなのだということがわかった。能舞台では「自分が何をしたいか」ではなく、「何をするためにここにいるのか」を問う。他ならぬここで、他ならぬこのときに、他ならぬ私が余人を以ては代え難い唯一無二の行為をする。だとしたら、それはどのような行為でなければならないのか。

→この論考は、今・ここでの私の生き方を問うている気がする鋭い論考である。「周りから送られてくる幽かなシグナルを感知して、それに従うことができるような感受性の高い身体を創り上げる事」「能舞台では自分が何をしたいかではなく、何をするためにここにいるのかを問う」「そこでどんな動作を身体が求めているのかは、文脈によって決まっている。これ以外の動作はあり得ないという必然性のある動作がある」このあたりは、今の自分の置かれている環境を考えてみても、周りの様々なシグナルを感知して、その必然性に従って自分は何をするためにここに置かれているのかを考え、一瞬一瞬を生きていかなくてはならない。自分の周りの環境が発するシグナルを適切に受信できていれば、私はいつ、どこに立って、どのように所作をなすべきなのか、環境に教えてもらえるはずなのである。

武道論(内田樹)からの学び ~日記を書くこと~先手・後手~

内田先生の武道論より、学びの記憶として残しておく。

「言語の生成と武道より」

私にとって「書く」とは、「まだ言葉にならないこと」を言葉にする位相転換の作業のことであって、そこが一番楽しいのである。今私が書こうとしているのは原理的には「私の理解を超えること」である。「私の理解を超えること」を私の手持ちの語彙の中に落とし込もうとしている。自分には理解できないアイデアを自分に理解できる言葉に置き換えることなどできるのか?これは「できる」。私はその訓練はレヴィナスの翻訳を通じて行ってきた。レヴィナスの書いていることが理解できないのは、哲学的知識やフランス語読解力が欠けていたからでなく、それ以上に私が未熟な人間だからであり、もっと人間的に成長しなければレヴィナスは理解できないことは直感的にわかった。翻訳という作業は、語学運用能力という知的な問題というよりかは、もっと全体的な私の人間的成熟にかかわる問題だった。

→今、日記をできるだけ書いているが、これは日々の起こっている現象や自分の考えたこと思った事で、言葉にならないことを言葉にする訓練になっている。ただ漫然と一日一日が過ぎていくのでなく、日記を書くことが人間的成熟にかかわる作業にもなっているだろうか。

「後手に回る」こと。「相手がこうしてきたら、こうよけよう。こう反撃しよう」という発想をする限り必ず後手に回る。どうすれば後手に回らずに済むか。日本各地い妖怪「サトリ」の民話がある。サトリは人間の心を読んで、次の動作を予測することはできるが、ランダムに起きる現象(井炉端の焚き木)を予知することができない。これは武道における「先手」という概念を考えるときの手がかりになる。「相手に先んじて動く」という枠組みにとどまる限り、身体が動き出すに先立って、その意図はすでに漏出し、相手に予知され、「起こり」を咎められる。「相手に先んじて動く」というスキームそのものが「後手に回る」ことを意味する。「先手」とは、サトリにおける「焚き木」のような動きのことである。「相手」とか「先」とかいうスキームの外に立つことである。相手の攻撃に応じたわけではなく、ふいに「水底から気泡が湧き上がるように」ある動作がしたくなったというのがよい。わずかな感覚入力に反応できるためには、身体のどこにも力みやこわばりや緩みがあってはならない。そのような身体の状態を達成するためには、別の仕事(失敗しようのない仕事)を託せばいい。想像上の雪を求めて、手のひらの感度が最大化しているという状態は間違いなく達成できる。そのとき、どこにも力みもこはばりも緩みもない身体になっている。

→想像上の訓練がこはばりや緩みや力みのない身体に通じる。能のお稽古はまさに想像上の訓練である。社会福祉の現場の仕事にまみれてしまうと、後手に回りそうになったり「相手」「先」というスキームでモノを考えがちになってしまうが、そのスキームの外に立つ身体であるよう調えていかなければならない。

 

感じるオープンダイアローグ(森川すいめい)所感

「感じるオープンダイアローグ(森川すいめい著)」読了。”対話がなぜこころを癒すのか”を著者の実体験に基づいた話と、対話を開くためのエッセンス・型・方法が述べられており、大変勉強になったので、下記にまとめておきたい。

対話がなぜ心を癒すのかについて、困難な状況にある人と対話の場を開くために、ケロプダス病院では3年以上の対話実践者になるトレーニングを積んでいると。『トレーニングの内容は、少しずつ自分のことを話、言葉に耳を傾けてもらい、仲間と対話しながら自分自身と向き合い、自分が自分の理解者になるというもの。自分自身との対話ができていなければ、他者との対話を開くことなどできない。他者を理解しようとするトレーニングを行うのと同時に、自分を理解すること、それが対話実践者になるための第一歩だった。』ここで著者自身がトレーニングにて自分のことを話して他者に聴いてもらい受け止められる中で、自分の過去と向き合いなおし、感情が洗われ直しながら、自分の理解を深めていくプロセスが書かれている。少し長くなるけど下記に引用する。『「どうして私は働いているのか。なぜこの仕事をしているのか・・・」相談者の苦悩を聞くことは、自分のこころを震わせる。それに耐えられないから、鎧をまとい、自分を守ろうとする。しかし鎧は、自分のことを話したり、相手と対話することを難しくする。このトレーニングでは、自分が鎧を着ていることを知り、鎧を脱ぎ、その下の傷を露わにして、自分が傷ついていることを話す。傷はとても痛むものだ。そこに触れられたら、感情は大きく揺さぶられる。涙を流すかもしれないし、怒ってしまうかもしれない。だから、その傷は癒されなければならない。傷ついたまま鎧を脱いだら、話を聞くうちに感情が大きく揺さぶられて、自分がひどく傷つくか、反対に話した人を深く傷つけてしまうかもしれない(中略)。私は自分自身と向き合い、自分の傷を理解して、鎧を脱いだままで自分の人生を進められるようにならなければならなかった(中略)。自分の家族については話すテーマは私にとってもっとも触れられたくない事柄だった。ほんの少しこころの扉を開くと、開いた傷から感情が一気に言葉になって溢れ出た。少しだけ話すなんて、できるはずがなかった。話すか話さないか、そのどちらかしかなかった。スタッフが「誰もが、自分の人生の中で、こころに傷を持っています」と話してくれた。自分の話をするというトレーニングでは、どうしても自分自身のこころの傷に触れることになる。私は最初に家族の話をしたとき、涙を流し深く嗚咽したことに驚いた。私は過去に蓋をしていただけだった。私は仲間たちに身をゆだねて涙し、自分で立つことができるようになるまで支えてもらった。』

ここで専門職であることを「鎧」と巧みに表現されている。自分も相談者の相談を受けている時に、自分自身の鎧が対話を邪魔していることを感じる場面はよくある。自分の鎧を脱ぐこと、これは著者の言うような体験を通してでないと身につかないであろう。また、「自分の話をすることが、自分自身のこころの傷に触れることになる」ということは相談を受ける時に、改めて肝に銘じておかないといけない。相手の相談を受ける立場にある人間は、何でもかんでも、相談者の経歴や相手の事を聞こうとするが、それがこころ傷に触れることになることに繊細な留意を払いつつ、受け止めていくことが大事なのだろうか。

次に、「Rely on process(プロセスに依拠しないさい)」というトレーナーの言葉が印象に残った。「トレーナーたちは、私のことを理解しようとはしたが、私のプロセスを阻害するようなことはしなかった。私は、自分の気づきのプロセスや、その速度について、誰にも口を挟まれることなく、自分のペースで進めることができた。かれらは私に変容を求めることなく、ただ一緒に同じ方向を向いて歩んでくれた。」これも、相談支援の働きの中では、重要な構え(態度)であると思う。

最後に対話に導く型の話があったので、ここにまとめて、日々の相談支援実践に活かせるようにしたい。

①まず、ここに来た経緯を全員から聞く。(この場について、どのように聞いているかを、それぞれお聞きしてもよろしいですか?)

②次に、今日この場で話したいと思う事をそれぞれに聴く(今日、ここで話したいと思う事や、この場に期待していることを、それぞれお聞きしてもいいですか?)

③その中から、どの話をしていくか決める

③の話で一旦区切りがついたら、スタッフだけで輪になって感じたことを本人たちのいる前で短く話す(リフレクティング)。これをおよそ1時間で行い、残り15分で話したいことがあるか聞く。希望があれば次の予約を入れる。

がんばるぞ!

 

 

生命ラジオ(5/13)感想(食べ物/物質に対する敬意/障害/モノの受け止めの精度)

生命ラジオ(5/13)の感想をまとめた送ったので、下記に記録としてとっておきたい。①食べ物の話、②物質に対する敬意、③障害について(モノの受け止めの精度)の話です。

おはようございます。

5月13日の生命ラジオアーカイブ拝聴させていただきました。

とても、内容の濃い興味深い話がたくさんあって学びが多くありました。

せっかくですので、ラジオを聞いて思ったことや考えたことをお送りさせていただければと思いメールさせていただきました。少し長文になってしまいましたが、お暇な時に一視聴者の感想として読んでいただければ嬉しいです。

 

①「食べ物は食べたものが自分の身体の一部になっている」という話を興味深く聞きました。今まで、食べ物については、あまり気にする事がなかったのですが、ここ最近、食べ物に関しては、どこでどのように作られたものが自分の身体に入っているのか気にするようになってきました。今年から近くの畑を借りて野菜つくりも始めています。今までサラリーマン的な「お金」のために働く毎日では気づくことのなかった世界が、野菜つくりをしたり、食べ物を気にしたりすることで、あるんだなと思いました。今日の話で、人生にはやりたい事とやりたくない事があるのでなく、大切な事とやりたい事があるだけなのだという話もありましたが、食べ物の事や身体の事は、自分にとっても大切な事だなと気づくことができたように思います。

 

 ②物質に対する“驚き・敬意”が自然科学を切り開く原動力という話に共感しました。自分が大学で物理学を専攻していたのですが、なぜ物理学を選んだのかと聞かれる時に、自分が小学生の時にオホーツク海の流氷を初めて見た時、圧倒的な自然を全身で感じて、身体の中をオホーツクの海・氷・風が吹き抜けたような体験が、自然に対して何か敬虔な気持ちになることを思い出しました。この圧倒的な地球・自然って何だろうという“驚き”や“敬意”が学びたい気持ちの原動力になってたのかなと思います。森田さんの話を聞いていると、自然科学を学べば学ぶほど、自然に対する驚きや敬意をより一層感じられるようになり、学生の時には感じることのできなかった不思議な思いで生命ラジオ拝聴しています。

 

③今、自分の仕事で障害のある人の行政から委託を受けた相談支援に関わっているのですが、「障害」についての話が聞けてとても興味深かったです。熊谷さんの自分なりのトイレの行き方の例を参考にしながら、リハビリについて「新しい現実に馴染ませていくこと」「自分たちの行動や言葉を組み立てなおしていくこと」という話を聞いて、私自身も含めて相談者と共に、「新しい現実に馴染ませていくこと」や「自分たちの行動や言葉を組みなおしていくこと」を日々の対話や関わりを通してやっているのかなと自分の仕事を振り返りました。また話の中で「世界を緻密にみる」「モノの受け止め方の精度を上げる」という話がありましたが、他者(相談者)の感じている現実世界を受け止めるときの精度を上げるというのは、お互いの心の余裕を保つためにとても大事なことだと思いました。ただ何となく支援の現場でも毎日を過ごしていると現実認識の精度が杜撰になってしまいがちなのを日々感じています。特に忙しさに追われてきたりすると、精度が杜撰になってくるのが自分でもわかり、心身ともに疲弊してきて、さらに精度が杜撰になるという悪循環に陥りがちです。生命ラジオでこういう話を聞いて、このような状態に自分がなってしまっているということに気づけたのはとても大きな学びになりました!これからも楽しみにしてます。

 

④最期に一つだけ。このリハビリの話の中で、「僕たちの心が世界をとらえるときに、悪というそのものがあるわけでなく、心の悲しみ・不公正などは、心のレベルでは本当にある。それを解きほぐすには、こころのレベルを生み出す手前のモノのレベルで世界を見るという事からこころを再構築していくことが、リハビリになるのでは」という興味深い話がありました。この「こころのレベルを生み出す手前のモノのレベルで世界を見るという事からこころを再構築していく」ということは、どういうことなのか興味があって、またどこかで取り上げていただけると嬉しいです。

 

以上、長々と失礼しました。

今週の生命ラジオも楽しみにしております!

 

タルマーリー 腐る経済に学ぶ ~小商い・自前の生産手段を取り戻す~

タルマーリー「腐る経済」読み終わる。著者の生き方そのものが、これからの「田舎暮らし」「地域を循環させる経済」についてのアイデアに溢れている。マルクスと「小商い」について書かれたところより引用。

マルクスいわく、資本主義経済の矛盾は、「生産手段」をもたない「労働者」が、自分の「労働力」を売るしかない構造から生まれている。そこでマルクスは、労働者みんなで「生産手段」を共有する共産主義を目指したが、今さらそういう方法がうまくいくとも思えない。今の時代は、ひとりひとりが自前の「生産手段」を取り戻すことが、有効な策になるのでないか。そのニュアンスをうまく表現しているのが「小商い」という言葉(中略)。「内」なる力、潜在能力を大切にする暮らしや仕事のあり方が、「天然菌」や「自然栽培」、あるいは「引き算のパンづくり」という発想と似ている(中略)。今こそ「小商い」の時代なのではないか。交通も通信もインフアが整備され、規模が小さくても十分にやっていける環境が整ってきている。インターネットやソーシャルメディアは、情報収集や情報発信も思いのまま。「小商い」にとって大きな武器。僕らのパンは、ひとことで表現するのが難しい。だから、ブログやツイッターフェイスブックを使い、僕らがつくるパンや店のあり方について丁寧に語ることに重きを置いている。心を込めて丹念にパンをつくり、言葉を紡いできた結果「田舎のパン屋」が5年にわたって受け入れられてきた。